2020/5/4

えぐい!全然ブログ書いてない!!

というか存在さえ忘れかけていた、令和2年の5月初旬。

 

約一年間更新しない間に慌ただしく京都での新生活が始まり、

なんとなく始めた仕事で相変わらず人間関係の疎ましさにうんうんと唸り、

奴との生活は1年半を越えかなり安定感を増している。

そして誰もが予想だにしなかった新型コロナウイルスというものに

例外なくそれなりに不自由さを感じながら生活をする日々。

 

今暮らしている場所は本当に住みやすい。

美味しい飲食店が豊富に立ち並び、生活用品も揃えやすい。

そろそろ引っ越してきて1年になるが

大阪に出ていくことが大変だということ以外、文句のつけようがない。

そういえば、越してきたのが丁度昨年の葵祭の日で、

当日の午後急に来訪した母親とバタバタと慣れない市バスに乗り込み

窓からその様子を新鮮に見つめていたのだった。

今年はそれも中止らしい。

 

奴によると、京都にいれるのは今年度までの線が濃厚だという。

だから今年は目いっぱい京都での様々なイベントを楽しもうと思っていた。

地元にもちょこちょこ顔を出そうと思っていた。

全て台無しになってしまった。

 

コロナで機会が奪われてしまった様々なことは、

あまり考えているとやるせなさでどうしようもなくなってしまう。

個人的にはやはり東京事変の再結成ライブだろう。

あの頃はこのライブを楽しみに、心の支えにして生活していた。

当時は気付けていなかったが、ライブが無くなって、

尚且つ執拗な世間のバッシングにかなり参ってしまっていたと思う。

それに気付いた時にはライブ予定日から2週間ほど経っていた。

 

緊急事態宣言が出されている今、遠くに遊びに行くことはできず

買い物か自転車で少し離れた公園に行くことぐらいしかできない。

それでもそれなりに楽しく過ごせるのはこの立地のお蔭だろう。

今日行った宝ヶ池公園もかなり楽しかった。

 

一人で暮らしていたら、と思うとゾッとする。

いや、それなりに工夫して楽しく過ごすことはできたとは思うが、

今ほどではなかったと思ってしまう。

色々考えることはあるが、彼と暮らしていることで

受けている恩恵は計り知れないと思う。

 

久しぶりに書くといつも雑多な文章になってしまうな。

もっと一日の細かいことを書くこともしないとな。

 

 

 

 

 

永久凍土の底に

1週間後に会えることは分かっているし

気ままに過ごせることはとても嬉しいのに

どうしたって淋しさが勝ってしまうな

昔は2ヶ月会わないこともザラだったのに

 

仕事してたら全然違うんだろうか

そうなのかもしれないし

そうじゃないかもしれない

 

この関係性を社会性を抜きに表すなら

完全に夫婦だと思う

でも家族ではないんだよな

今の所

 

関係性の名称なんて気にしなくても

自分達が良ければいいと思ってるけど

やっぱり結婚して祝福されている人を見ると

私も真っ当に大っぴらに幸せだと言いたい

って気持ちになる

そしてその保証が婚姻関係

 

そう、幸せなのだ

寝食を共にして

毎週末遊びに出て

たわいのない話ができることが

 

でもそんなことはやっぱり続かなくて

なんの因果か地元近くに戻ることになり

半年余りでまた生活が変わってしまう

 

不安定な関係性の上に

不安定な生活がのっている

その状態が辛いんだろうな

だからせめてどちらかを安定させたい

って焦っているのだと思う

 

そんなことをつらつらと書き連ねたところで

自分の感情に自覚的になるだけで

その他に得はない訳だけれど、

私はこういうことを意識的に行わないと

すぐに感情の居場所を見失ってしまうので

結構大事であったりする

 

 

見送りに行った後

イチローの孤独と一弓の健気さに触れ

キリンジの「千年紀末に降る雪は」に

琴線を刺激され

久々に詩のようなものを書いてみたくなったのだけれど、

結局ただの散文になってしまった

 

もっと抽象的なことが書きたかったのだけど、

その前に自分の中に占めている感情を

明確に吐き出したかったんだろうな

 

そんなことができている今この瞬間は

ひとりであるからこそ生まれているわけで

そう思うとかなり貴重だ

その面については本当に良かったと思う

 

 

明日は朝から一仕事しよう

そのあと元号の発表を待ちつつ家事をしよう

午後からは勉強をしながらゆっくりしよう

中目黒のKINTOにいつ行くかも考えよう

 

楽しいことを考えよう

お腹に温もりを感じるだけで鎮痛する不思議

 

なんだか色々疲れてしまったな

調子悪いからだろうけど

ただこの数週間のゴタゴタは確実に心にきている

 

全て私が主体でないからこそ辛いのだ

それは自分自身のやってきたことのツケであるように感じられて

それがより一層虚しさを増長させる

 

ほんと、何してるんだ?と思う

思うけど

それが私の生き方なのだとも思う

ただ

その考えを貫ける強さがないだけで

 

 

将来への不安はずっと付き纏う

こちらにいてもあっちにいてもそうだったろう

ならせめて、

側で温もりを感じられる方がいいに決まっている

だってこんな不安も痛みも触られるだけで軽くなるのに

どうして離れていることを選択できるんだろう

 

 

何も分からないことが本当に辛いのだ

ただその中でも私は私でしなければいけないことがあり、

奮い立たせて挑まなければならず、

 

 

 

信用はしているけれど

約束が欲しいのだ

 

 

頑張りたくない

安眠とは

午前3時、横にはスヤスヤと眠る君

 

 

案の定自分の意思薄弱さを実感し鬱々としている

 

 

ただ単純に働きに出るのが面倒なだけなんだよなー(クズ!)

 

 

楽しいことないかしらん、と人生の8割ぐらいは考えていると思う それもみんな他人任せ

 

 

 

日記を毎日つけるくらいはやろうかな…できるんかいな…私…

自由へ道連れ

随分とブログを書いていなかった。

書こうと試みたことは何度かあったけれど、何か書きたいことがあったわけでもないのでそのままになっていた。

 

2年ほど前からひとつの事しか書いていないあたり、私の思考が単純で短絡的であることが伺える。それくらい、彼がいる生活によって思考が一変してしまったのだ。このことを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、未だに答えは出ない。でも、確実にこの一年半は、自分ではない他人によって生活を支配されていた。

 

 

 

 

 

仕事を辞めることが決まった。自ら望んでそうなった筈なのに、いざ決まると途端に心許なくなってしまっている。そういうところが、本当に甘々だと痛感させられる。

 

この痛み、揺らぎは、確実に私だけのものだ。私がどうにかしないと、どうにもならない。「自分」が主体になるなのだ。こんなに当たり前のことがとても久しぶりだった。

 

足元がおぼつかず、現実味がない。しかしリミットは確実に迫ってきている。やるべきことをやり、残された時間の過ごし方を考えなければいけない。

 

 

 

 

 

しかし、本来はこうでなければいけないのだ。これ以上、のうのうと、ふわふわと、流されるように生きていてはいけない。そんな覚悟を決められようとしているのは、紛れもなく自分の中にいる他人のお陰で。

 

住処が交わるからこそ、私は私の力で生きなければいけない。私は私の責任の元で生活していかなければならない。不安でしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

文章を綴りながら、自然と「自由へ道連れ」という言葉が頭をよぎった。そう、「自由」は主体的でなく相対的なのだ。

 

大人にも子供にもならず、気分と合理の両方で迷いながら、相反する二つを結ぶ。

 

私に、できるだろうか。

初恋と不倫

すぐそこにある話だ。何もかも。

全ては地続きで、関係のないことなんてない。

あなたに触りたくなった。

離れないように、壊れないように。

 

 

 

しんどい

これはどういうことなのかな?

単なる疲れなのか、体調の悪さなのか、精神的なものなのか

何れにしても気にしすぎてはいけないと思うのだけれど中々気持ちが乗ってこない

 

やっぱり知らないうちにガタがきているんだろうか、誰かがずっとそばにいるということはそれなりの心労があるんだろうか、

 

最初のうちはうまくできていたのにどんどん分からなくなる

これが依存というならそろそろ区切りをつけないといけないのかもしれない

 

自分がどこにいるのかが分からない

 

この浮遊感をどうすれば良いの?