自由へ道連れ
随分とブログを書いていなかった。
書こうと試みたことは何度かあったけれど、何か書きたいことがあったわけでもないのでそのままになっていた。
2年ほど前からひとつの事しか書いていないあたり、私の思考が単純で短絡的であることが伺える。それくらい、彼がいる生活によって思考が一変してしまったのだ。このことを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、未だに答えは出ない。でも、確実にこの一年半は、自分ではない他人によって生活を支配されていた。
仕事を辞めることが決まった。自ら望んでそうなった筈なのに、いざ決まると途端に心許なくなってしまっている。そういうところが、本当に甘々だと痛感させられる。
この痛み、揺らぎは、確実に私だけのものだ。私がどうにかしないと、どうにもならない。「自分」が主体になるなのだ。こんなに当たり前のことがとても久しぶりだった。
足元がおぼつかず、現実味がない。しかしリミットは確実に迫ってきている。やるべきことをやり、残された時間の過ごし方を考えなければいけない。
しかし、本来はこうでなければいけないのだ。これ以上、のうのうと、ふわふわと、流されるように生きていてはいけない。そんな覚悟を決められようとしているのは、紛れもなく自分の中にいる他人のお陰で。
住処が交わるからこそ、私は私の力で生きなければいけない。私は私の責任の元で生活していかなければならない。不安でしかない。
文章を綴りながら、自然と「自由へ道連れ」という言葉が頭をよぎった。そう、「自由」は主体的でなく相対的なのだ。
大人にも子供にもならず、気分と合理の両方で迷いながら、相反する二つを結ぶ。
私に、できるだろうか。